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佐世保小6女児同級生殺害事件 周囲の人々が抱える10年間の葛藤

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『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)
 「佐世保小6女児同級生殺害事件」から今年で10年。白昼の小学校内で、6年生の女子児童が同級生にカッターナイフで首を切られるという前代未聞の事件は、当時、社会に大きなインパクトを与えた。『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)は当時、毎日新聞佐世保支局で事件の取材にあたっていた川名壮志が、事件から10年を経て執筆したノンフィクションだ。  初めは、小さないざこざだった。交換日記の中やインターネットの上で発生した、友だち同士の些細なトラブル。しかし、小学生なら誰でも経験するような小さな傷が、白昼の殺人という、大人も目をそむけずにはいられないような大事件へと発展する。「いったいなぜ……?」どう考えても埋めることのできない、原因と結果との途方もない乖離。『バトル・ロワイアル』にハマり、小説の二次創作をしていた加害者の少女は、インターネットでオカルトやホラーなどアングラ系サイトをのぞき見ることを趣味としていた。それは、確かに原因の一端であるかもしれないが、その事実をもってしても「なぜ」という疑問が消えることはない。  本書において、著者である川名の主眼は「なぜ」を追求することに向けられていない。その代わりに彼が描くのは、事件によって日常を奪われてしまった、自分自身を含めた周囲の人々の葛藤だ。  殺された御手洗怜美さんは当時、毎日新聞佐世保支局長であった御手洗恭二氏の娘。支局長の社宅は支局の上階に作られており、川名も怜美さんとも挨拶をかわしたり、一緒に食卓を囲むなど、家族同然の付き合いをしていた。しかし、そんな日常は、事件の発生を境に奪われてしまう。彼は、「被害者の隣人」でありながら、新聞記者として事件を報道する立場となってしまったのだ。そして、初めてそんな立場から見たマスコミの世界は、不条理で、グロテスクな姿をしていた。 「御手洗さんは、報道陣の要望に応えて佐世保市役所で会見していた。遺族が事件当日に会見を開くなど、前代未聞のことだった。  男性アナウンサーが、表情を変えずに淡々と事件に触れる。  『こんなときに、なんで御手洗さんを引きずりだしたんだ』  折り目正しいナレーションを聞きながら、僕は思わず怒りがこみ上げる。マスコミの一員でありながら、要望の残酷さが許せない。いい気なものであるが」 「事件報道でお馴染みの原稿スタイル、お決まりの写真なのに、そこに出てくる怜美ちゃんや御手洗さんの名前に、ひどく違和感をおぼえる。昨日から夢の続きを見ているようだ。彼女の命がすでにないものだという現実を、どうしても頭が受け入れない」  本来、公正中立な立場から読者に真実を届けることが、記者として求められる使命であるはず。しかし、川名の脳裏には、殺された怜美さんの姿がちらつき、マスコミ人としての姿勢と自分の気持ちとがせめぎ合う。自分は記者なのか、それとも「被害者の隣人」なのか……。どちらかに振り切ることのできない立場から、川名の筆は事件を描かざるを得なかった。  そして、川名以上の苦しみを背負わされてしまったのが、少女たちの家族だ。怜美さんの父、加害者の父、怜美さんの4歳上の兄は、それぞれの立場から抱えた葛藤を川名に向かって吐露する。当時を振り返って語られるその言葉には、努めて冷静であろうとする強い意志と、しかし、そこから漏れ出てしまう激しい感情との両方がうかがえる。 「なぜか彼女(加害者)に対して、憎いとは一度も思わなかったんですよね。怒りをぶつけるべき相手が違うような気がしました。(略)なら、憎むのは相手の親なのか、それもよくわからない。(略)それでも、何かいらいらするんです。何に対して起こっているのか、ぶつけるべき怒りが何なのか、自分でもわかっていなかったです。怒るのは間違いなく怒っている。でも、それをぶつけるべきところが分からなかった」(被害者・怜美さんの兄) 「これまでずっと『なぜ』の答えを見つけたいという気持ちがすごく強かったんだけど、それが変わってきた。自分なりに事件を見直す作業というのをやって、その過程で『あ、もう、これ以上やってもわかんないだろうな』って思った。そういう風に思っちゃったんだよね、『ああ、やっぱりわかんないな、これは』って。(略)自分と、自分の家族に目を向けたほうがいいのかな、とそんな気持ちだね、今は」(被害者・怜美さんの父・御手洗恭二さん) 「テレビなんかで、家族そろってご飯を食べる和気藹々としたシーンがありますよね。あぁ、うちの娘がいればなってフッと思うんです。でもちょっと待て、御手洗さんはそういうことも考えられないんだって、我に返るんです。そうすると、どうしていいのか、わからなくなる。一生そんな風に考えつづけるんだろうな、ついて回るんだろうなって思います。自分の子育てが間違っていたんじゃないかと思う。すべてのことに自信をなくしてしまいました」(加害少女の父)  審判の中で贖罪の弁を述べることのなかった加害者の少女は、栃木県にある児童自立支援施設に送致された。そして、施設内の中学校を卒業し、ひっそりと退所。現在は、日本のどこかで生活を送っている。いったい、今、彼女は何を感じ、事件についてどう考えているのか。施設内で更生を果たし、自らの犯した罪をしっかりと反省しているのだろうか……。彼女の現在の姿は明らかにされていない。  一方、彼女の周囲にいた大人たちは、10年を経ても、いまだに事件を背負ったまま生活を送っている。けれども、彼らは、ただ彼女を憎むのではなく、彼女が更生していることを心から願っている。本書のタイトルである「謝るなら、いつでもおいで」は、加害者の少女に対して、被害者の兄が語った言葉。彼は、自らの妹を殺害した少女に「普通に生きてほしい」とメッセージを送っている。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

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